かぐはしい南の風は
かげろふと青い雲滃(おう)を載せて
なだらのくさをすべって行けば
かたくりの花もその葉の班も燃える

賢治のうた

冒頭にあげたのは、私が中学1年生になったばかりのときに手にした『賢治のうた』(草野心平編著)のトビラにある「北上山地の春」という作品の一部です。

思えば、いまも座右に置かれている宮沢賢治の一冊の文庫本から、私の「詩」との長いつきあいがはじまりました。

『賢治のうた』の中でも、とりわけ深いところで私の心に共鳴したのが「春と修羅・序」でした。当時、賢治の「序」を真似て、次のような詩を作りました。

   序

目的は
己の表面を安全な殻で保ち
その内部において自己の存在と
知性の限定にある現在の時間で
世界という存在の絶対的真理をつかむこと
それは数は宇宙を支配する
という形態で表面から投下される
だが
唯一の成功が真の無限と偶然の虚像という
命題であるごとく
この日生と死のぎりぎりの空間に挑む
修羅に転じる

(昭和50年11月3日)

 

 

私にとっての「序」を記したこの「昭和50年11月3日」から、早いもので今日でちょうど38年。そんな日に、きわめて地味なブログを始めることにしました。

このブログは、近年あまり関心がもたれなくなってきた「詩」を少しずつ読み、詩とは何かということを私なりに考えていくために作りました。

私のいう詩というのは、明治期の近代化とともに作られるようになった新体詩(近代詩)を中心に、短歌や俳句、漢詩、さらには古今東西さまざまな世界で「詩」と呼ばれてきている言葉の集合体のことを指しています。

逆に、詩とは何か、ということがよくわからないので、なんとなく掬い取ってみたくて、50歳を過ぎたいまも、才もないのに飽きることなく、あれ、これ、読みつづけているといったほうが当たっているのかもしれません。

迷い、ためらい、あっちへ手を出し、またこっちへ戻ってと、これまでの人生のように紆余曲折を重ねながら、それでも、生あるかぎり詩への旅を楽しみつづけていくことになりそうです。

このブログが、そんな私の最後の「旅」の道標であり、記録になれば、と考えています。