森鷗外「あふさきるさ」⑨ まへの夜

 

  まへの夜 

      同志の友十人足らずの狩競せんとすと告げおこせし少年に

ゆらぐなり 油火風に
弦(つる)はぐ丸屋
十張には 足らねど材の
六つ選りし弓

狩くらの 荒雄の明日を
神夢に泣き
岫(くき)ぬちの 闇に木精(こだま)の
夜ただこたふる
 

ほらあな


「あふさきるさ」のつづき、きょうは「まへの夜」という題の詩を見ていきます。第1連、第2連ともに、 五・七・七・五・七・七の六句からなる旋頭歌の形式を取っています。

旋頭歌は、本来は民謡として、五・七・七形式の片歌が、二人によって唱和されていたのが、後に一人で歌われるようになってできた歌体。『古事記』『日本書紀』に各2首、『万葉集』に63首、『琴歌譜』に1首、『古今集』『拾遺集』に各4首。語源は、通常、頭(上三句)をめぐ(旋)らす=繰り返す=歌の意とされているそうです。民謡的色彩の濃いものが多く、和歌が口唱性を捨てて個人の文学として確立していくにつれて衰えていきました。

前書にある「狩競」は、狩で獲物を競うこと、狩くらべ。

「油火」は、灯心に油を浸してともす火、ともしび。『万葉集』(18巻・4086)に「安夫良火(アブラひ)の光に見ゆる我がかづらさゆりの花のゑまはしきかも」とあります。

「は(矧)ぐ」とは、 鳥の羽を矢竹につけて矢をつくること、または、弓の弦に矢を引きかける、弓に矢をつがえることをいいますが、「弦はぐ」は、弦を弓に引きかけているのでしょう。

「丸屋」(まろや)は、葦(あし)や茅(かや)などをそのまま屋根に葺いた粗末な家のこと。

「張」は、弓・琴など、弦を張ったものを数えるのに用います。

「狩くら」は、狩猟する場所、すなわち狩場。さらには、狩場で行われる狩りそのものや、狩りにおいて獲物を競い合うことをも意味しました。平安時代中期以後、在地領主たちによって原野がしだいに「狩倉」などとして領有されるようになり、弓馬を主要武器とする彼らは、そこで狩猟による戦技訓練を行うとともに、そうした山野の領有することで住人たちを支配しするようになっていきました。

 「荒雄」は、荒々しい男、強く勇敢な男。ますらお。

「岫」(くき)は、山の洞穴。「ぬち」は、格助詞「の」に名詞「うち」が付いて変化したもの。のうち。くぬち(国中)、やぬち(屋内)、はらぬち(腹内)など。「岫ぬち」は、洞穴の中、ということになります。

「木精」は、木の精霊。木々に精霊が宿っていると考える樹木崇拝の一つ。木に傷をつければ痛み切倒せば死ぬ、供物を捧げれば人々に恩恵を与え、無視すれば災害をもたらすとされました。転じて山の反響をもいいます。山の反響の谺(こだま)は、音声が山に当たって返ってくるのを、山の霊がこたえるのだと考えられました。ここでは、洞穴の中の「木精」をうたっています。


かぐはしい南の風は
かげろふと青い雲滃(おう)を載せて
なだらのくさをすべって行けば
かたくりの花もその葉の班も燃える

賢治のうた

冒頭にあげたのは、私が中学1年生になったばかりのときに手にした『賢治のうた』(草野心平編著)のトビラにある「北上山地の春」という作品の一部です。

思えば、いまも座右に置かれている宮沢賢治の一冊の文庫本から、私の「詩」との長いつきあいがはじまりました。

『賢治のうた』の中でも、とりわけ深いところで私の心に共鳴したのが「春と修羅・序」でした。当時、賢治の「序」を真似て、次のような詩を作りました。

   序

目的は
己の表面を安全な殻で保ち
その内部において自己の存在と
知性の限定にある現在の時間で
世界という存在の絶対的真理をつかむこと
それは数は宇宙を支配する
という形態で表面から投下される
だが
唯一の成功が真の無限と偶然の虚像という
命題であるごとく
この日生と死のぎりぎりの空間に挑む
修羅に転じる

(昭和50年11月3日)

 

 

私にとっての「序」を記したこの「昭和50年11月3日」から、早いもので今日でちょうど38年。そんな日に、きわめて地味なブログを始めることにしました。

このブログは、近年あまり関心がもたれなくなってきた「詩」を少しずつ読み、詩とは何かということを私なりに考えていくために作りました。

私のいう詩というのは、明治期の近代化とともに作られるようになった新体詩(近代詩)を中心に、短歌や俳句、漢詩、さらには古今東西さまざまな世界で「詩」と呼ばれてきている言葉の集合体のことを指しています。

逆に、詩とは何か、ということがよくわからないので、なんとなく掬い取ってみたくて、50歳を過ぎたいまも、才もないのに飽きることなく、あれ、これ、読みつづけているといったほうが当たっているのかもしれません。

迷い、ためらい、あっちへ手を出し、またこっちへ戻ってと、これまでの人生のように紆余曲折を重ねながら、それでも、生あるかぎり詩への旅を楽しみつづけていくことになりそうです。

このブログが、そんな私の最後の「旅」の道標であり、記録になれば、と考えています。